私を想ふ

そこまで。やっぱり、またそこまでなのかな。あなたも一緒、今までのみんなと。あなたは私に答えをくれない。そして私はまたこのもどかしい、重い空気を胸に閉じ込めるんだ。あなたに動揺させられた心を落ち着かせるために。私は俯く。私の言うことをきかないこの心を、重い空気が絞めつける。ああ、苦しい。ああ、どうしてなんだろう。いつも私はこうだ。出会いはこんな感じで落ち着く。私は自分をどうしたいのだろう。分からない。あなたを守りたいのだろうか。そう強く思うこともある。でもそのすぐ後ろでもう一人の私が自分を守ろうとしている。私があなたを愛すれば、私はきっと私でいられなくなる。この変わり映えのしない、たいした魅力もない、傲慢な秩序に押し殺された日常の生活でも、それでもその破壊をもう一人の私は許してくれない。それは、気づいた時に私が荒れ果てた道に一人立ちつくす時がくることを恐れているから。私はあなたのために人生を捧げられない。最近の私はみんなこうだ。熱くなれないのかもしれない。ただ自己の崩壊を恐れて。あなたは私に何ができますか。あなたは私を守ってくれますか。私があなたを守りたいと強く思う時、私が私でいられるように、あなたは守ってくれますか。多分無理でしょう。何故なら私がそれを望まないから。私は、もしあなたが私を愛してくれた時、それを感じることができるだろうか。あなたに愛されていることを理解できるだろうか。おそらく無理だろう。私はきっと、私があなたに愛してもらえると思う程、あなたに尽くしている時にのみ、その虚飾に満足するのだろう。こんな私は嫌いだ。本当は立っているのも辛いくらい私は重圧の中にいるのだから。この苦しみから解放してほしい。私に答えをください。そして何も言わずに私を抱きしめてください。そんな事を絶対に許さない強い私が負けてしまうくらい。あなたの胸で泣かせてください。

ここで私の思考は再び静寂に飲み込まれていく。返ってくるものは何もない。私は正気に戻る。

人前でそんな弱い自分は出せない。守るのは私だ。そもそも私は別にあなたを愛しているわけではないのだから、そんな仮の話をすること自体馬鹿げている。私は私を守る。この決意を脅かすもの自体が嫌いだ。それなのに、私はあなたの笑顔が好きだ。こればかりは否定できない。そしてこれこそ私を苦しめているものなのだ。あなたの笑顔を思い出せば、あなたに会いたくなる。私の創り出した、あなたというやさしさの塊に、ただ私は翻弄するのだ。それはいけないことだといつも思う。静かに独りで生きていきたいと願う自分がいる。私はあなたを思いやることはない。私はいつも勝手だ。そんな自分も嫌いである。でも私はあなたを思いやることがないことに気づく。あなたの声に耳を傾けても、そこから何を聴こうとしているのか分からない。かと言って耳当たりの良いあなたの声をラジオを聞くかのように聞いているわけでもない。気になることが忌まわしい。私は何を気にしているというのだ。分かっていることは私があなたに触れることで私が自分を見失ってしまうことをひどく恐れていること。でもそれは答えになっていない。私があなたを気にしていることを気にしているのだから。あなたという存在が私に破壊しか齎さないのであれば、私は私を破壊してくれることを無意識的に望んでいるのだろうか。意識的にはあなたに守ってもらうことを望んでいるようにも思えるのに。私は静かに独りで生きたいと思っているはずだが、もう一人の私は、もしかすると、私が私であることを私に認識させるために、私がいかに人を愛して、人を守る人間であるか、満足のいくようにあなたをその手段とすることを望んでいるのかもしれない。そんな事あってほしくない。でもそんな事あってほしくないと願うのも、私が醜い人間である事を否定したいだけなのだ。私はそんな醜い人間ではない。私はいつも人の事を気遣うし、謹んで人に接している。私はあなたを尊敬しているし、私があなたに見せる態度に偽りはない。本当はそんな事思っていないんだよと、心の中で嘲笑っている事は絶対にない。そう願いたい。ああ、私が自分を疑えないくらいあなたを愛せればいいのに。でもそれも私にはできない。何故できないのか。傷つくのを恐れているから。何故にそんなにも傷つく事を恐れているのだろう。確かに私には大きなトラウマがある。私は虚構を目の当たりにしたから。愛するという事は自己満足の手段でしかない事を実感したから。虚像はそのオリジナルによって破壊され、すでに虚像は私に取り込まれていたため、私は私を破壊されたことになる。それは対象喪失なのか、自己喪失なのかも分からない、言葉では顕せないほどの悲痛。私の身体的精神的全活動が無効化された瞬間。その時私はもう死んでいるのかもしれない。しかし、その時の事で覚えている唯一の事は、何とも分からない、何かをしなければならないという義務感に歩かされていたという事。やはり私は何かを探している気がする。それとも何かを見つけてしまったのか。少なくとも私には探し物は見つけられないだろう。もう二度と傷つきたくはないから。虚像となった私は目を閉じる。

<アイデンティティの増大><私が私でありすぎる><自他の認識のしかた>

あなたがあなたである事を認識すればする程、私が私である事を知らされる。そして私は私でしかない事をも知らされる。私はあなたに強く関ろうとすればする程、私は孤独感を得る。私が独りで静かに生きてゆけば私は事実上孤独であるが、それは大勢から孤立した私ではない。他者との関係が希薄になる程、私を規定する要素も少なくなる。私は私だけでいられる。別に他者との関係を完全に断ち切る事が不可能である事が嫌なわけではない。私だって事実上で完全な孤独になりたいわけではない。そのアイデンティティというものを考えた時に私は私でありたいが私でありすぎてほしくないと願うのである。私が何か行為をしてもそれは一方通行である。私が何かすればそれが人に何らかの影響を与えるかもしれない。しかし、私は相手にどんな影響を及ぼし得るかも分からない行為に自信が持てない。人は私を優しい人だという。でもただ私は自分が傷つきたくないだけなのかもしれない。あなたが傷つけば、あなたは私を傷つける人としてみる。そして私は構造破壊される。私はあなたが幸せになる事を願う時がある。あなたが幸せになればそれで私も幸せと思う時。そんな利他的な願いなど本当にあり得るのかと思う人がいるかもしれない。私がどんな行為をしようと、それがどうあなたに影響するかはあなた次第である。何故ならあなたにとって「受ける」という事は、あなたの行為であるから。私があなたにどう感じさせるかを決定する事はできない。だから別にあなたが幸せになるために発信される行為の主体は私でなくても良いのだ。あなたがあなたである事が、私が私である事に寄与するならばそれは利他的な願いと言わなくても良いだろう。私の本当の願いはあなたが私に「私はあなたが私に対してどうしたいのか分かります。ちゃんとあなたの行為は私に正しい形で届いています」と言ってくれること。そしてそれが真実である事を私に分からしめる事。あなたが私に向けて何かを発信する時、あなたが私に受け取ってほしいと願う事がちゃんと私が感じられること。そう、私はあなたを大切にしたい。そしてあなたに私を大切にしてもらいたい。それがお互いに伝わる保証がほしい。逆を言えば、私はあなたを理解する自信がないし、あなたに私を分からせる自信もない、その事が私を苦しめているのだ。

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