汝自身を知れとソクラテス

「汝自身を知れ」というのは、人間は神の真似事をするべきではない、人間としての分を弁えろということであるが、人間は人間であるということを認識すべきだということだろうか。一方ソクラテスはデルフォイのアポロンから「ソクラテスにまさる知者はなし」と神託されたとのことで、世間から知者と思われ尊敬されている人々に問答法を用いて、自分がその者達よりも、無知であるということを知っているという点で知者であると考えた。しかしアポロンの言いたかったこと(?)、言ったことはそういうことだったのだろうか。私はあえて違った意味で捉えてみたいと思う。

ソクラテスは「アテネの市民に無知を自覚させ、魂をできるかぎり善くし、ポリスの市民として正しく生きるようにするための真の知識を求めさせることが、神が自分に与えた使命である」と考えたらしい。またソクラテスは「知」というものを、徳を実現する道徳的な力をその内に持つものであるとした。では「徳」とはいかなるものかというと勇気・節制・敬虔・正義などで、魂を善くするものと考えていたらしい。

しかし「知」というものは神のみが持っているものであるというのならば、無知であることを知っているからといって、それが真の知であるわけでもないのではないか。ここでもう一度「汝自身を知れ」という言葉を思い出してみる。人間とはどんな存在なのだろうか。それはまさしく世間から知者と思われ尊敬されている人々をみても分かるように、真の知がどんなことか分かるはずもなく、それでも何かを知っているように振る舞い、また神の真似ごとをしたり、神に近づこうとするような傲慢な存在である。ならば汝自身を知るということは己が傲慢な存在であることを認めろということではないのか。ソクラテスなら、傲慢な存在ということを自覚した上で、魂を善くすべく徳を実践することが「知」へ向かう道であるのだと言うだろう。本当にそうだろうか?徳を実践することで「知」へ向かえるということこそ大きな思い上がりというか、傲慢ではないのか。

以上からアポロンの「ソクラテスにまさる知者はなし」という信託の解釈を二つ出した。

1.ソクラテスはアテネの市民に魂をできるかぎり善くするように呼びかけ、少しでも真の知に近づこうとしていたことが大きな傲慢であり、その傲慢さが誰よりも勝るという点で誰よりも「人間」を全うした、ということではないか。

2.ソクラテスは「知行合一」の思想を生み、徳を実践することによって「知」に向かえると考えたが、もちろんそれは間違いであるが、その傲慢を全うしたことによって、後の世に大きな影響を与え、それが偶然(あるいは全てが神の意図的なものかもしれないが)神の創った「人間」というものに近づく大きな貢献をした、またはソクラテス自身の生涯が「人間」に近かった、ということではないか。「徳」が「人間」に向かうものと考えていたのであればそのことがソクラテスを一番の知者たらしめているだろうという事とはちょっと違う。「徳」が「人間」であることに向かわせるものであるかは神のみぞ知るからである。

いずれにしても私の解釈は「知」というものを「汝自身を知れ」すなわち「人間であれ」という言う意味であることを根拠としている。アポロンの下した信託にある「知者」とは、神のもつ「知」ではなく、「人間」であるということだと考えたのだ。

結びはまた二つ。

1.人間が如何に傲慢であろうと、つまり環境を破壊しようが、クローン人間を造ろうが神に近づくことはない。人間がどんな風に振る舞おうとそれは人間の自由意志ではなく、神の造った「人間」をはみ出るものではない。

2.例えば「徳」が「人間」たらしめるものであるなど、確定はしないが、ソクラテスは多くの人間を「人間」に向かわせるために、神の手段とされた。

余談

わざわざ「汝自身を知れ」と神が言ったのであれば、@とは言いきれないですね。ただ、「人間」があまりにも傲慢で、やっぱり少なくとも自分達「神」とは別ものなんだということだけは分からせるべきかと思って言ったのかもしれません。なんにせよ、こんな考え方をしたのも私が無神論者(?)、無信仰者だからでしょう。なんかしらの信仰を持っている人なら、既にその神というか、絶対的な存在によって「在るべき人間」が何であるかを教えられているはずですから。でも私も、信仰は持っていませんが「在るべき人間の姿」というものを、教育を受けたからか知りませんが期待しています。それを期待してしまうことも傲慢であったり、あるいは「人間」であることの一部かもしれませんね。

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