我が国のモラル崩壊の原因は?

京都のてるくはのる事件,神戸の酒鬼薔薇事件のようなゲーム感覚の殺人事件、お受験事件やバタフライナイフ事件に通り魔事件、一昔前では宮崎勉の事件に恐怖した覚えがあるが、近頃そんな恐ろしい事件がずいぶん多い気がする。街を埋め尽くす若者達のいたたましい姿。「最近の若いものは」という言葉は大昔からいつでも言われてきたことだから、それをモラルの低下と直結できるかは考えもので、大人達の言うモラルの低下には次世代のモラルへの変化とも言えるものがあるのかもしれない。しかし現代において私達の向かっている所はそんなものではない気がする。モラルは低下しているのではなく、また変化しているのでもなく、まさに崩壊しているのではないだろうか。いったいその原因はどこにあるのだろうか。

学校中退者は年々急増傾向にある。マスコミは学歴社会を取り上げ、学校の教育方針に問題があることを印象づける。中教審は教育改革に追われる。また、キレる子供が話題となり、その子供らによる犯罪も問題となった。キレるとはどういう状況なのか。我を失って暴走することだというが、何故にそんなにも簡単に我を失ってしまうのだろうか。そもそも彼らに我という認識があるのかが疑問である。我をしっかり持つというのは何も起きていないときに使う言葉ではなく、有事に使う言葉である。彼らは有事にはキレてしまうのならもともと我などというものを持っていないのではないか。それらの原因を親の愛情が足りなかった等というのは簡単であるが、具体性に欠ける。一つ一つ丁寧に考えてみなくてははならない。

私はモラルの崩壊の中核はやはり幼児期の親の愛情の足りなさだと思うが、それに一役かっているのがテレビやゲームといった電子メディアである。最近の親は赤ん坊の子守りにもテレビを使うらしい。今の子供は生まれて間もないときからずっとテレビを見て育ってきているわけである。子供に英語を覚えさせようと一日中英語のテレビを見せていたが子供は英語を喋れるようにはならなかったという話がある。赤ん坊は生きるため、食べ物をもらうためにその必要性から言葉を覚えていくのが始まりで、親とのコミュニケーションなしでは言葉を覚えないのだそうだ。テレビは一方的で、休む暇なく情報を与え続ける、そして決してこちらからの呼びかけには応答しない。いくら英語を耳にしていても自分が聞こえたもの、そして発したものを確認することはできない。子供達は意味も分からないまま、正しいかも分からないままそれを吸収しているのである。それは人間社会においての諸概念の構築ができていないことを意味している。そして、自我の認識である。自分という存在をどのように社会と関連させて認知できるか、自己の客体化ができるかは、何よりもまず社会の中での自分というものに気づくこと、自分とは何であるかを考える所から始まるのである。現代においてそれを考える時間はなくなっているのである。以前なら必ず退屈な時間というものがあった。何にもすることがなくて途方に暮れる時間である。然しその退屈な時間が大切な役割を果たしているのである。退屈な時間はあれこれ考え事をするのにはうってつけの時間である。退屈な時間を有意義なものにすることによって私達は自分をふりかえり、自分というものをつくりあげてきたのである。テレビはその退屈な時間を埋めてくれる。私達は何も考えることなくテレビを見たりすることでやり過ごすことができる。現代の私達には余りにも考え事をする時間が減っているのではないだろうか。それが子供達には顕著に現れているのである。子供にはテレビは生活の主要な一部であり、もはやテレビの世界と日常に境界線はない。私達はテレビの中のバイオレンスシーンやゲームの中でキャラクターが簡単に死んだり生き返ったりすることは架空のものであると理解できているが、それは現実世界で生活している時間が長いことと、自分が社会の中に在るということを認識できているからである。子供達は悪の意識があって人を傷付けているのではなく、善悪という概念が築かれていないために、仮想現実から持ち出され、あたりまえのようなこととしてやっているのである。子供がどれくらい架空の世界と現実との区別ができていないかということは大人達が予想しているよりも更に悪い状況であると思われる。こんな話もある。東京の小学生で、デパートで買って来たカブトムシが死んでしまったときにカブトムシの腹を割き「電池が入っていない」と言ったそうだ。さらにデパートに修理してもらいにいったと言うのだから恐ろしい。子供によっては架空の世界と現実との区別ができないどころか、架空の世界そのものに生きているものもいるということである。もちろん架空の世界に社会というものは存在しない、ゲームにおいてもそれは一方的に与えられるものでコミュニケーションがない。現代の子供はコミュニケーションの必要性、そして自分が社会の中で生きていると言うことを理解していない。

機能的識字率という数値で日本は世界のトップレベルをいく。受験競争にあおられる中で求められるのは識字である。親は子供の将来のためにといって必死に勉強させて識字率の向上を図る。しかし子供達にとって勉強している内容は決して識字ではない。子供がまさに得ようとしているものはただの情報に他ならない。社会的自立という意味もわからず、そのための読み書き能力をつける必要がどこにあるだろうか。子供達にはそれ以前に自分というもの、家族というもの、学校というもの、そして社会というものについて考えさせなくてはならない。そこに親の努力が必要なのではないか。親がコミュニケーションをとり、そして地域の子供達と遊びを通して協調性を学び、自分が社会というものの中でどのように振る舞うべきかということよりどのように社会に生きているかを実感し、またどのように生きたいかを考えたりすることを見守ってやらねばならない。子供の将来を思いやるのは結構だが、子供の将来を親が与えているわけではない。子供に、自分が将来どのように生きていくのかを考えさせなくてはならない、現実世界で生きているんだということを理解する時間を与えてやることが必要ではないだろうか。これをしなくてはいけない、あれをしてはいけないなどと道徳教育をする必要があるというよりも、子供に子供達同士、外で遊ぶことで協調性を養い、自分達でルールというものを考えていける機会を与えたり、その上での識字教育をさせてやることがモラルを再建できる手段であると思う。いくら文明が発達して、人間が楽に生きることができても「楽しい」だけではだめなのである。喜びを得るために模索して、幸せを追求していけたら良いと思う。

参考文献:本が死ぬところ暴力が生まれる(バリーサンダース著・新潮社)
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