公民的資質と人間形成との関連性

公民という言葉がよく分からず、皇民なのか国民なのか、それとも市民なのかといった感じではあるが、個人の対となる言葉として考えようと思う。

公民的資質とは、人が社会を担う一人として、人と人とを結ぶための力であり、かつそれは演繹的なものではなく帰納的なもので、予め存在不可欠なものとされている、と私は考える。つまりどういうことかというと、先ず公という場があり、そこに個人がいるという前提があり、個人が公の中で他の個人と共に生きるために(1)用意された手段であり、一方(2)制約でもある、ということである。

人は社会の中でなくては生きてゆけず、それゆえに社会の中で生きやすい手段が必要である。公民的資質とは社会という生き物に対応しているので、普遍なものとは限らないだろう。だから、それが(普遍的な)善であるか、徳であるかは別問題だと思う。一緒に考えると時に混乱することになる。

個を主張し、自分は社会の中で生きる必要がないという人や、普遍的な善といった類のものに重きを置く人にとっては、かえって生きにくいものかもしれず、(1) においては、その手段を放棄できる気もする。しかし公民的資質には(2)の側面もあり、いかなる人間もその制約から逃れることはできない。人は社会の中で生かされている側面もあるのである。

以上のことを踏まえて、教育の場で公民的資質を育成する事について考察すると、公民的資質は人が公というフィールドで生きていく上で、大変有用なものであり、しかもそれは公という立場をとる学校が教えるのが適切である。むしろ公民的資質を育成すべき場として学校があるといった方が正しいのかもしれない。社会の中で、自分達がどのように生きているのかを客観的に知ることが先ず一つ。その社会認識を持って、将来自分達が社会を担うことを自覚し、建設的創造ができることが公民的資質である。いわば公というフィールドで生きる自分の人生を、企画し実行する力である。ただ、学校において社会認識を持たせることはできたとしても、そこから子どもがどのように積極的な創造をしていくかは不明であろう。そこに大人の「期待」という名で善を装った抑圧が入るのは危険であるかもしれない。もちろん、私達大人の、公民的資質に基づく「期待」であれば止めることはできないのだが。

ゆえに、公民的資質は前に述べた通り、普遍的なものではないので、育成できるという考えは誤りである。私達が育成したい公民的資質が生きている私達の社会と、子ども達が生きる社会は連続的ではあるが同一のものではない。よって学校では社会認識を持たせることくらいしかできない。

ただし、社会の中で生きるという制約があるからこそ、公民的資質を育成できないことで大人が危惧する事態というのは、まずないと言える。どういう事かと言うと、制約があることによって、公民的資質にも普遍的な部分が存在するということである。

その代表が「社会をつないでいこう」とすること。公民的資質を育成できるというのは誤りだとしても、その行為は確実に人間の発展に向かっていると思う。

後記:人と人とを結ぶ「人間」というものが形成されるために、公民的資質はある。ただ、果たして人間の向かう先が、何かしらの絶対的なものからみたとき「ヨイ」ものであるかどうかは私には分からない。

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