なぜ人を殺してはいけないのか?と子どもに聞かれたら

「自分で考えなさい」

私はなぜ人を殺してはいけないのかという理屈をいつ獲得したのだろう。

本当にそんなものを獲得したのか?

親に教えられた?

何を?

「人を殺してはいけませんよ」って教えられた?

そんな記憶はございません。

「なんで人を殺しちゃいけないの?」と聞いたことはあったかもしれない。その時、親はどんな理屈で私を諭したのだろう?悪いが覚えていない。やっぱり聞いたことないのかもしれない。少なくとも親が私の疑問に答える時に、この世の「善」なるものを捉えて、それを根拠に諭していたわけではない。

確かに私は子どもの時よく親に「なんで?」って質問をたくさんした。そういう子どもだった。その度に親は「それはね〜」と教えてくれた。大体は納得した。納得できないことはどこまでも追及する構えだった。そういう場合は結局「そういうものなの」で終わった。大人の権威かもしれない。やむを得ず、私は「そういうもの」として納得した。

納得した?

したわけがない。その場を引き下がっただけ。親にとっては「そういうもの」なのだから、それ以上先は、親にはない。これ以上振っても出てくるものはないから諦める。その後私はどうした?兄弟や友達、学校の先生、近所のおばちゃん、その他街行く人に聞いてまわっただろうか?

そんなことしておりません。

友達とはそんな話をしたかもしれない。だがその時は、友達も同じような疑問を持っているんだなあと共感しただけだし、自分と多少も変わらない歳の子どもに聞いたところで答えが返ってくるとも期待していない。

なぜ?それは親のように、多くの経験を持ち、権威があり、かつ私に対して真剣に向き合ってくれているという信頼感があるから、、、かもしれない。

そもそも「なぜ?」ってなんだろう?ある事柄(多くが真理とされているもの)が先行して私に突付けられ、その道筋が明確でない場合に「なぜ?」を用いる。なぜ?と聞く時、疑念の他に畏敬の念が含まれている気がする。「なぜ?」と対象はもしかすると神の領域であるかもしれず、それに本気で触れようとするならば、上述のような親であることが適切なのかもしれない。親が「それはね〜」と答えたものに私が納得すればそれまでだし、「そういうもの」と言われてしまえばいよいよ私は神の領域に足を踏み入れようとしていることになる。

では私が今現在「なぜ人を殺してはいけないのか」という問にどのような答えを出しているか、とどのつまり「そういうものだから」。誤解しないでもらいたいが、親が「そういうものなの」と言ったからではない。私もいろいろ考えてみたが、現時点では答えは見つかっていない。必ずどこかで「そういうもの」として止まらざるを得ない。

以上のことを考えると、私も一度陥りそうになった「共に考えよう!」という美論は「アホですか」という気持ちになった。勿論、共に考えるのが悪いことだとは思わない。ただ、私がその答えを知っているなんて思ったら大間違えだし、私だって今まで一生懸命考えてきたんだ。自分で考えもせずに人から教えてもらおうなんて、そりゃちょっと甘いんじゃないの?と言いたくなった。私が単にケチなだけかもしれないが。まずは自分で考えなさい。あなたが本気で私に聞きたいのなら、私の「そういうもの」までを聞かせてあげよう。それで納得できないんだったら、自分で考えなさい。と、真理でないにせよ大人の権威として傲慢を行使することも私にはできる。

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